第二次世界大戦におけるドイツ海軍

両大戦間のドイツ海軍の歩み

第一次世界大戦の敗北

 第一次世界大戦は、ドイツの敗北に終わった。かつて英国海軍のフィッシャー提督をして「英国が世界中でおそるべきただ一つ」とまで言わしめたドイツ海軍は、ヴェルサイユ条約によって著しく縮小される。
 保有を許されたのは旧式戦艦(前ドレッドノート級)×6、軽巡×6、駆逐艦×12だけだった。条約はこれ以外にも様々な制限をドイツに課す。空母、潜水艦の保有禁止。戦艦を代替する場合には、その排水量は一万トンをこえず、かつ28センチ以上の砲を搭載してはならない。すなわち戦勝国は、ドイツ海軍を永久に無力化することを望んだのだ。
 さる歴史家はヴェルサイユ条約体制について「カルタゴの平和」と表現している。通商国家カルタゴを打ち破ったローマ帝国はその地に塩をまき、文字どおり根絶やしにした。かつて繁栄を誇ったカルタゴは今日跡形も残っていない。しかしドイツは、その苛烈な抑制をはねのけ再び立ち上がった。その頂点に立ったのは、歴史上最も忌むべきとされる者の一人であったが。

新生ドイツ海軍の歩み

 初代総司令官パウル・ベーンケは、まず本土防衛とバルト海入口の支配を新生ドイツ海軍の目的とする。厳しい枷をはめられたドイツ海軍には、それがせいいっぱいだった。
 彼の後を継いだハンス・ツェンカー提督は旧式戦艦の代替を建造するにあたり、独創的な案を採用する。当時、ヴェルサイユ条約の制限下では沿岸防衛用の低速重武装艦か、重巡ぐらいしか建造できまいという考えが主流だった。しかし第三代提督エーリヒ・レーダーは、「装甲艦」と呼ばれる革新的な艦を手にする。1931年に進水した<ドイッチュラント>は重巡のスピードと航続距離、そして戦艦の打撃力を合わせ持っていた。ここにドイツ海軍は、通商破壊戦を実施するに足る力を第一次世界大戦後はじめて手に入れた。

ヴェルサイユ条約の破棄

 レーダー総司令官は不当なヴェルサイユ条約による制限を巧妙にごまかし、軍備強化を図った。彼はバランスのとれた海軍の建設を目指していた。1933年、ドイツ首相となったアドルフ・ヒトラーは、再軍備の重要性を認めつつ、英国との戦争は考えられないことだと彼に確約した。
 ヒトラー政権下で、ドイツはヴェルサイユ条約を公然と非難し始めた。1935年3月には、遂にこの条約を破棄する。同年6月には英独海軍協定が結ばれ、ドイツ海軍は公式に英国海軍の35パーセントの戦力保有を認められた。巡洋戦艦、つづいて戦艦の建造が始まり、ドイツ海軍は急速に成長していく。そして同時に、ドイツ第三帝国も次第にその力を増していった。
 1936年3月、ドイツ陸軍はラインラントに進駐する。1938年にはオーストリア、ズデーテンを相次いで併合した。

第二次世界大戦の勃発とZ計画の崩壊

 1938年9月、ドイツ海軍は対英戦争計画作成に着手した。1939年1月、ヒトラーはZ計画と呼ばれる艦艇建造計画を承認する。それは、1945年までに英国海軍に対抗できる艦隊を編成せんとする大計画であった。しかし同年9月、第二次世界大戦が勃発する。Z計画は、ここにもろくも潰え去った。


ビスマルク

戦艦
ビスマルク級

建造ブローム・ウント・フォス社
進水1939/2/14
竣工1940/8/24
喪失1941/5/27 (戦没)
基準排水量41700t
全長251m
36m
喫水10.2m
主缶ワグナー高圧缶12個
主機ギヤード蒸気タービン3基
軸数3軸
出力138000hp
速力29kt
燃料搭載量重油7900t
航続力9280nm (16kt)
兵装38cm連装砲4基、15cm連装砲6基、10.5cm連装高角砲8基、37mm連装機関砲8基、20mm4連装高角機関砲10基
装甲水線320mm、甲板120mm、主砲塔前楯360mm、主砲塔天蓋130mm、司令塔350mm
搭載機6機
カタパルト1基
乗員2092名

 1935年度および1936年度計画艦。仮称艦名F。戦艦ハノーヴァーの代艦として建造。起工は1936年7月1日。1932年より始まった次期戦艦設計研究に基づいている。1936年に建造は開始されていたが、英海軍の動向などを参考に竣工直前まで大幅な設計変更が施されている。
 設計はバイエルン級をタイプシップとしているが、特に防御関係にはその特徴が多く取り入れられている。甲板防御にはクルップ社が開発したヴォタンというニッケル・クロム・モリブデン鋼の硬質鋼鈑を使用している。また、水中防御は同じくヴォタンの軟質鋼鈑によるインターナル・バルジ形式。
 船体の90%以上が溶接構造で、長さの83%が二重船底となっていた。船体内部は17のバルクヘッドで仕切られ、18の水密区画が形成されている。
 防御範囲は水平線の70.5%にあたる170mで、他国戦艦が50%代より格段に広い。アーマーベルトの高さは5.7m。防御装甲の重量は17256tで、常備排水量の33%にあたる。
 基準排水量は35000tと公表されたが、これは英独海軍協定の規定をクリアするためである。
 推進方式には電気推進が候補に上がったが、実績不足と電線破断時の問題を考慮し、取りやめられた。
 主砲が38センチと定められたのは、仮想敵国たるフランスの新戦艦主砲もワシントン条約の排水量制限により38センチが限度と推測されたため(1934年)。なお、主砲は47口径、最大仰角は35度で、射程は36200m。発射速度毎分3発と記載された資料もあるが、どうも間違いらしい。仰角 4 度で 26 秒ごとに発射可能という数字が正しいものと思われる。2.5 度の固定装填とのこと。なお、仰角変更は毎秒 6 度、旋回速度は毎秒 5.4 度らしい。
 副砲は1928年制式化されたもので、砲身長55口径、最大仰角35度、最大射程22000m、発射速度毎分10発。
 水上レーダーとして23型のアンテナを測距儀前面に装備している。
 公試時、30.1ktを記録している。蒸気圧力は帝政時代の艦が16気圧であったのに対し、58気圧と大幅に引き上げられている。また、蒸気温度も摂氏450度に上げられている。これは、燃料消費の経済化を図るためであった。なお、タービンはスイスのブラウン・ボベリー社製。
 バルパス・バウと平衡舵(2枚釣舵)が採用されている。

 1941年5月18日、重巡プリンツ・オイゲンとともにゴーテンハーフェンを出港。カテガット、スカゲラック海峡を抜け、ノルウェーのギムスタド・フィヨルドに向かう。艦隊司令長官はリュッチェンス中将。艦長はリンデマン大佐。作戦名は「ライン演習」。なお当初作戦には巡洋戦艦2隻も参加する予定だった。
 同5月23日、デンマーク海峡にて英重巡サフォークに発見される。
 同5月24日、北海にて巡洋戦艦フッド及び戦艦プリンス・オブ・ウェールズと交戦。ドイツ側の観測によれば、交戦距離は18000m。戦闘開始から1分にみたぬ内に命中弾をフッドに与える。午前6時1分、フッドは轟沈。プリンス・オブ・ウェールズ艦橋に命中弾を与えるも3発を被弾。燃料漏れ発生。ブレストに向かう。以後、英艦隊の追撃を受ける。
 同5月26日、航空魚雷2本を受けて舵を損傷。
 同5月27日、英戦艦ロドネー及びキング・ジョージ五世などの砲撃と重巡ドーセットシャーの雷撃を受ける。午前10時36分、英仏海峡西方300浬に沈没。自沈説もあるが、真相は不明。


ティルピッツ

戦艦
ビスマルク級

建造ヴィルヘルムスハーフェン工廠
進水1939/4/1
竣工1941/2/25
喪失1944/11/12 (戦没)
基準排水量42900t
全長251m
36m
喫水10.6m
主缶ワグナー高圧缶12個
主機ギヤード蒸気タービン3基
軸数3軸
出力138000hp
速力29kt
燃料搭載量重油8780t
航続力10200nm (16kt)
兵装38cm連装砲4基、15cm連装砲6基、10.5cm連装高角砲8基、37mm連装機関砲8基、20mm4連装高角機関砲10基
装甲水線320mm、甲板120mm、主砲塔前楯360mm、主砲塔天蓋130mm、司令塔350mm
搭載機6機
カタパルト1基
乗員2092名

 1935年度および1936年度計画艦。仮称艦名G。戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインの代艦として建造された。煙突側面のクレーンや高角機関砲などの位置がビスマルクとは異なる。

 公試時、30.8ktを記録している。
 27型レーダーを増設。
 1941年9月23日、アドミラル・シェーアとともにアランド諸島でソ連バルチック艦隊の脱出阻止に当たる。
 1942年1月、ノルウェーのトロニエムに進出。
 同年3月、PQ12攻撃に出動。戦果なし。
 同年7月、PQ17攻撃に出動。戦果なし。
 1943年ごろ、53.3cm4連装魚雷発射管を上甲板中央部両舷に搭載。水上機は空軍に引き渡された。
 1943年3月、アルタ・フィヨルドに進出。
 1943年9月、シャルンホルストとともにスピッツベルゲン島を砲撃。
 1943年9月22日、アルタ・フィヨルドにて英潜航艇(X艇)2隻が4発の特殊爆雷を設置。艦底で爆発し、大損害を被る。以後翌4月まで行動不能に陥っていた。なお修理は、工作艦ノイマルクによる。
 1944年4月3日、英空母機により14発の命中弾を被る。
 同8月24日、英空母機により2発の命中弾を被る。
 同9月15日、ロシアより飛来した英重爆により5トン爆弾の至近弾を浴びる。船体フレームが破壊され、外洋行動は不能となる。
 同年10月、水深が浅いトロムセに沈没を避けるため移動。以後、浅瀬で浮砲台の任務に就く。
 1944年11月12日、5トン爆弾の直撃3発、至近弾多数を喫し、転覆水没。なお、英国の記録によると1942年1月からティルピッツに加えられた空襲は14回、延べ626機(未帰還機32機)、命中弾20発、至近弾3発。


シャルンホルスト

巡洋戦艦
シャルンホルスト級

建造ヴィルヘルムスハーフェン工廠
進水1936/10/3
竣工1939/1/7
喪失19443/12/26 (戦没)
基準排水量31850t
全長229.8m
30m
喫水9.91m
主缶ワグナー高圧缶
主機蒸気タービン3基
軸数3軸
出力160000hp
速力31kt
燃料搭載量重油6300t
航続力10000nm (17kt)
兵装28cm3連装砲3基、15cm連装砲6基、10.5cm連装高角砲7基、37mm連装高角機関砲8基、20mm単装高角機関砲10基
装甲水線350mm、甲板105mm、主砲塔前楯360mm、主砲塔天蓋150mm、司令塔350mm
搭載機4機
カタパルト2基
乗員1669名

 1934年度計画艦。仮称艦名D。戦艦エルザスの代艦として建造。起工は1935年5月16日。再軍備宣言後、対仏軍備充実を目指して最初に建造した主力艦である。
 当初ポケット戦艦の4、5番艦として計画されたが、その計画では基準排水量19000tとなっていた。当時フランスは戦艦ダンケルクを建造中であり、これに対抗するため、第一次大戦時の未成巡洋戦艦マッケンゼン級をタイプシップに計画を練り直された。これにより基準排水量は26000tとなり、一般にもそう公表された。しかし後にさらなる設計変更で6000t増大している。設計変更は建造中も続き、この結果、水線甲帯は水線から約1.2m上までしかカバーできなかった。
 船体は21の防水区画に分かれ、全長の79%が二重底とされていた。
 計画艦種名は戦艦だが、装甲重量を犠牲にして高速を得ており、事実上は巡洋戦艦に分類される。ただし、この艦を火力を犠牲にして高速を得た艦とみなす意見もあり、その場合は中型高速戦艦と呼ぶ。
 主砲は54.5口径でドイッチュラント級より60cm長い。計画時には38cm連装砲3基搭載も検討されたが、同砲が1940年まで完成しないため、一旦28cmで忍ぶこととなった。砲弾重量は315キロ。仰角45度で、射距離は42600mだった。発射速度は毎分2.5発。なお、28cm砲弾は105発、15cm砲弾は150発が搭載されていた。
 37mm連装高角砲は83口径で、セミ・オートマチック方式。毎分30発、仰角35度で8500mの射程を有していた。なお、1門当たり2000発の砲弾が用意されていた。
 戦時中20mm機銃は随時増設され、ついには34門に達した。
 装甲にはヴォタン甲鈑がビスマルク級に先駆けて採用されている。
 バルパス・バウを採用、平衡舵を備えていた。
 新造時、艦首の錨鎖孔は左舷に2個、右舷に1個設けられていた。
 機関は当初ディーゼルで検討されていたが必要な出力を出しうる目処が立たなかったため、超高圧タービンとされた。しかしその完成には時間を要し、建造遅延の原因となった。タービンはブラウン・ボベリー社製で、公試では31.5ktをたたき出した。なお、当時の公表値では速力は27ktとなっている。

 建造中に横転、死者61名、負傷者110人を出す。
 進水予定日の前夜に支索が切れ、勝手に進水してしまった。
 1939年、グナイゼナウに続き垂直型艦首をアトランチック・バウに改造。全長が5.1m増大した(時期不明)。
 開戦時、エルベ川ブルンスビュッテルに停泊中英空軍の攻撃を受けるも、無傷。  1939年11月、グナイゼナウとともにアイスランド南方に出撃。仮装巡洋艦ラワルピンディを撃沈。停止して生存者を救助。
 1939年末頃、第3砲塔上の後部カタパルトを撤去。同時期に測距儀上部に22型レーダーを装備している。
 1940年、グナイゼナウとともにノルウェー方面に出撃。ナルヴィク揚陸支援を実施。
 1940年4月9日、ウェストフィヨルドで巡洋戦艦レナウンと交戦。
 1940年6月4日、マルシャル提督指揮の下、グナイゼナウ、重巡アドミラル・ヒッパー、駆逐艦4隻で出動。
 1940年6月8日、午後4時、空母グローリアス、駆逐艦アカスタ及びアーデントと遭遇。これらを撃沈(ノルウェー沖海戦)。アカスタの魚雷による浸水のため作戦続行を断念、トロンヘイムで応急修理。
 同6月20日、キールに帰港。修理を受ける。
 同12月28日、大西洋にグナイゼナウと共に出撃。しかし戦果はなく、帰国。
 1941年、軽巡ニュールンベルグの魚雷発射管を搭載(時期不明)。
 1941年1月22日、大西洋にグナイゼナウと共に出撃。指揮官はリュッチェンス提督。ベルリン作戦と名付けられていた。
 同1月27日、アイスランド方面に転進。
 同2月1日、ノルウェー海にて洋上給油を受ける。
 同2月5日、グリーンランド近海にて洋上給油を受ける。
 同2月8日、グリーンランド南方にて戦艦ラミリーズを視認。船団攻撃中止。
 同2月14日、グリーンランド近海にて洋上給油を受ける。
 同2月23日、グリーンランド南方にて商船5隻を撃沈。
 同2月27日、北大西洋にて洋上給油を受ける。
 同3月7日、アフリカ近海にて戦艦マレーヤを視認。船団攻撃中止。
 同3月9日、アフリカ近海にて商船1隻を撃沈。
 同3月13〜15日、北大西洋にて商船13隻撃沈、3隻を捕獲。戦艦ロドネーを視認。船団攻撃中止。
 同3月18日、北大西洋にて洋上給油を受ける。
 同3月23日、ブレストに帰港。この航海は17800浬に及んだ。戦果は22隻(115622t)。
 同7月、空襲により被弾損傷。
 1942年2月11日、グナイゼナウ、重巡プリンツ・オイゲン、駆逐艦6隻とともにブレストを脱出。艦隊司令としてチリアクス中将が座乗していた。
 同2月12日、白昼堂々とイギリス海峡とドーヴァー海峡を突破(いわゆる、チャンネル・ダッシュ作戦)。二度機雷と接触、損傷。
 同2月13日、ヴィルヘルムスハーフェンに入港。この後ゴーテンハーフェンのドックに移動し、修理を受ける。
 1942年秋、重巡プリンツ・オイゲンと共にバルト海で活動。
 1943年3月、アルト・フィヨルドに進出。
 1943年9月、ティルピッツとともにスピッツベルゲン島を砲撃。
 1943年12月25日、ベイ提督指揮の下、駆逐艦5隻とともに援ソ船団攻撃のためノール・カップ北方に出撃。艦長はヒンツ大佐。
 1943年12月26日、駆逐艦を偵察のため分派したが、何も発見できず。単独航行中のところを英護衛部隊と遭遇。会敵90分前、偵察機は「5隻の軍艦の内1隻は明らかに大型艦」と報告したにも関わらず、航空部隊司令官は「5隻の軍艦」とのみ艦隊に通報した。英部隊と交戦中レーダーが使用不能となり、戦艦デューク・オブ・ヨークら英艦隊のレーダー射撃を浴びる。ほぼ全弾撃ちつくすまで戦いぬいたのち、午後7時半、魚雷によって撃沈された(ノースケープ沖海戦)。なお、生存者は6名。


グナイゼナウ

巡洋戦艦
シャルンホルスト級

建造キール社
進水1936/12/8
竣工1938/5/21
喪失1945/3/28 (戦没・1951解体)
基準排水量31850t
全長229.8m
30m
喫水9.91m
主缶ワグナー高圧缶
主機蒸気タービン3基
軸数3軸
出力160000hp
速力31kt
燃料搭載量重油6300t
航続力10000nm (17kt)
兵装28cm3連装砲3基、15cm連装砲6基、10.5cm連装高角砲7基、37mm連装高角機関砲8基、20mm単装高角機関砲10基
装甲水線350mm、甲板105mm、主砲塔前楯360mm、主砲塔天蓋150mm、司令塔350mm
搭載機4機
カタパルト2基
乗員1669名

 1934年度計画艦。仮称艦名E。戦艦ヘッセンの代艦として建造。

 1935年3月、ドイチェ・ヴェルケ造船所にて起工された。なお、進水日は先代グナイゼナウが沈んだ日であった。
 タービンはゲルマニア式で、公試速力は32ktであった。
 1938年から1939年にかけて垂直型艦首をアトランチック・バウに改造している。これにより、全長は234.9mになった。同時に、煙突に斜めのキャップを装着している。
 1939年夏、実弾ゼロで航海訓練を行う。
 開戦時、エルベ川ブルンスビュッテルに停泊中英空軍の攻撃を受けるも、無傷。
 1939年10月8日、軽巡ケルン及び駆逐艦9隻とともにノルウェー南部に向かうも、英空軍の接触を受けたため、撤退。
 1939年11月、シャルンホルストとともにアイスランド南方に出撃。仮装巡洋艦ラワルピンディを撃沈。停止して生存者を救助。
 1940年、シャルンホルストとともにノルウェー方面に出撃。ナルヴィク揚陸支援を実施。
 同4月9日、ウェストフィヨルドで巡洋戦艦レナウンと交戦。
 1940年6月4日、マルシャル提督指揮の下、シャルンホルスト、重巡アドミラル・ヒッパー、駆逐艦4隻で出動。
 1940年6月8日、午後4時、空母グローリアス、駆逐艦アカスタ及びアーデントと遭遇。これらを撃沈(ノルウェー沖海戦)。
 英潜水艦の雷撃を受けたため、応急修理の後、キールに帰還。4ヶ月の修理を行う。この際、レーダーの前部測距儀上への装備、53.3cm3連装魚雷発射管の両舷中部への装備が行われている。
 同12月28日、大西洋にシャルンホルストと共に出撃。しかし戦果はなく、帰国。  1941年1月22日、大西洋にシャルンホルストと共に出撃。指揮官はリュッチェンス提督。ベルリン作戦と名付けられていた。
 同1月27日、アイスランド方面に転進。
 同2月1日、ノルウェー海にて洋上給油を受ける。
 同2月5日、グリーンランド近海にて洋上給油を受ける。
 同2月8日、グリーンランド南方にて戦艦ラミリーズを視認。船団攻撃中止。
 同2月14日、グリーンランド近海にて洋上給油を受ける。
 同2月23日、グリーンランド南方にて商船5隻を撃沈。
 同2月27日、北大西洋にて洋上給油を受ける。
 同3月7日、アフリカ近海にて戦艦マレーヤを視認。船団攻撃中止。
 同3月9日、アフリカ近海にて商船1隻を撃沈。
 同3月13〜15日、北大西洋にて商船13隻撃沈、3隻を捕獲。戦艦ロドネーを視認。船団攻撃中止。
 同3月18日、北大西洋にて洋上給油を受ける。
 同3月23日、ブレストに帰港。この航海は17800浬に及んだ。戦果は22隻(115622t)。
 1941年、ブレストにて後部カタパルトの撤去と大型格納庫の設置がおこなわれる。20mm機銃も増設され、24門となった。
 1941年4月6日、航空魚雷1発を被弾。数日後、ドックにて4発の爆弾を受ける。
 1942年2月11日、シャルンホルスト、重巡プリンツ・オイゲン、駆逐艦6隻とともにブレストを脱出。
 同2月12日、白昼堂々とイギリス海峡とドーヴァー海峡を突破(いわゆる、チャンネル・ダッシュ作戦)。機雷に触れる。
 同2月13日、ヴィルヘルムスハーフェンに入港。
 同2月26〜27日、キールで修理中に空襲を受ける。火薬庫が爆発し、船体前部を大破。ゴーテンハーフェンに移動し、修理と38cm砲搭載のための大工事が開始される。
 1943年1月、ヒトラーの命令により工事は中断。陸揚げされた主砲などはオランダやノルウェーなどで地上砲台に転用された。
 1945年5月、ゴーテンハーフェン港入口にて航路閉塞のため自爆閣座。


ドイッチュラント(リュッツォウ)

装甲艦
ドイッチュラント級

建造キール社
進水1931/5/19
竣工1933/4/1
喪失1945/5/4(自沈・1949年解体)
基準排水量11700t
全長186m
20.7m
喫水7.25m
主機ディーゼル8基
軸数2軸
出力55400hp
速力26kt
燃料搭載量重油3200t
航続力10000nm (20kt)
兵装28cm3連装砲2基、15cm単装砲8基、8.8cm単装高角砲3基、50cm4連装水上魚雷発射管2基
装甲水線60mm、甲板40mm、主砲塔前楯140mm、主砲塔天蓋105mm、司令塔150mm
乗員619名

 1928年度計画艦。仮称艦名A。戦艦プロイセンの代艦として建造。ヴェルサイユ条約の制限下で建造されたが、実際の排水量は制限を約2割超過していた。
 全体に徹底した重量軽減が図られており、船体は全接合部の9割が電気溶接で処理されいる。また、ディーゼル機関の採用により長い航続距離を得ていた。条約下で大した艦は造れまいと考えていた列強諸国は、重巡並の速力と戦艦に近い打撃力を合わせ持つこの艦の出現に恐怖した。マスコミはこれを「ポケット戦艦」と呼ぶ。
 バルパス・バウを採用し、舵は1枚。船底部は水線長の92パーセントが二重底で、この比率は従来の主力艦中最大である。なお、魚雷防御隔壁は45mm。
 主砲は52口径で、初速は毎秒910m。測距儀は10mの大型。対空火器は随時増設されたようで、1944年ごろには37mm連装×2、40mm単装×6、20mm×26を装備していた。
 新機軸のディーゼル機関は故障が多かったが、公試では28ktを記録している。配備先はヴィルヘルムスハーフェン。

 1935年に改装を受けたが、その主な内容は以下の通り。カタパルト1基の装備とクレーンの強化。後部測距儀上部に無電柱を増設。魚雷発射管口径は53.3cmに改められた。また、8.8cm単装高角砲(45口径)は76口径連装砲に換装されている。水上偵察機としてHe60を2機装備したのもこの時期と思われる(後にAr196に換装)。He114を搭載した事もあるようだ。
 1937年4月頃、スペイン内乱においてファシスト軍を後押しするため地中海に進出。地中海派遣艦隊の指揮官はテオドール・クランケ。共和国側の港湾都市や共和国軍施設を砲撃。明らかに国際法違反だったが、これを非難する国はなかった。
 1937年5月29日、マジョルカ島イサビ港に停泊中、共和国軍のツポレフSB-2爆撃機2機により攻撃を受ける。爆撃機は沈みかけた太陽を背に接近、4発の爆弾を投下し、1発を後部水兵用食堂に命中させた。これにより死者31人、負傷者83人がでた。被弾後、英軍勢力下のジブラルタルに退避。
 1937年5月末(31日?)、アルメリア市街に報復砲撃。防空に独伊2隻ずつ駆逐艦をだしている。200発以上の砲弾を撃ち込み、市民19人を死亡せしめる。
 1938年、煙突頂部にキャップを増設。
 1939年8月、大西洋にて待機した後、通商破壊戦を開始。まず英国船を沈め、米国船を捕獲、次いでノルウェー船を撃沈した。撃沈トン数は合計で6297トン。
 同11月15日、沈められた場合の士気への影響を考え、改名。
 同17日、ゴーテンハーフェンへ帰港。
 同24〜25日、ジュットランド沖へ出動するも戦果なし。
 1940年2月、艦種を重巡に改める。
 同4月9日、ノルウェーのオスロ・フィヨルドを航行中に沿岸のトパース砲台から28cm砲弾3発を喫する。
 同4月11日、ノルウェー作戦の帰途、カテガット海峡にて英国潜水艦スピアフィッシュの雷撃により船尾を大破。舵とスクリューを損傷したためキールに曳航。
 同7月9日、不発爆弾を見舞われる。
 以後、1941年初頭まで修理改装工事が行われた。この際、8.8cm連装砲は10.5cm単装砲に換装されている。塔檣測距儀上に22型レーダーが装備されたのも同時期と思われる。
 1942年5月、ナルヴィク作戦に参加。
 同7月7日、座礁。
 同12月31日、ベア島付近でJW51B船団を攻撃。しかし重巡アドミラル・ヒッパーが損傷、駆逐艦1隻を失ったため、アルタ・フィヨルドに退却(バレンツ海海戦)。この敗退に怒ったヒトラーは戦艦解体を指示するに至る。
 1943年、アドミラル・シェーア、重巡アドミラル・ヒッパー、重巡プリンツ・オイゲンと共に第2戦闘部隊を編成。司令官はティーレ中将。メメルとスウォルベに対し砲撃を敢行。
 1945年2月、アドミラル・シェーア、重巡プリンツ・オイゲン及びアドミラル・ヒッパーとともに東部プロシアからポメラニアに向かってバルチック海沿岸をつたい、陸軍を支援。エルビング陣地を砲撃。
 1945年4月16日、シュヴィーネミュンデ南方で英軍機の空襲により5トン爆弾の至近弾を浴び、大破着底。
 以後砲台として用いられたがソ連軍の接近に伴い自沈。
 戦後ソ連が引き揚げ、レニングラードに曳航。使用されぬまま、1949年に解体された。


アドミラル・シェーア

装甲艦
ドイッチュラント級

建造ヴィルヘルムスハーフェン工廠
進水1933/4/1
竣工1934/11/12
喪失1945/4/9(戦没・1948年埋設)
基準排水量11700t
全長186m
21.3m
喫水7.25m
主機ディーゼル8基
軸数2軸
出力55400hp
速力26kt
燃料搭載量重油2900t
航続力9100nm (20kt)
兵装28cm3連装砲2基、15cm単装砲8基、8.8cm単装高角砲3基、53.3cm4連装水上魚雷発射管2基
装甲水線60mm、甲板45mm、主砲塔前楯140mm、主砲塔天蓋105mm、司令塔150mm
乗員619名

 1931年度計画艦。仮称艦名B。戦艦ロートリンゲンの代艦として建造。ディーゼルと推進軸の間のフルカン・ギヤは、ドイッチュラントで2基だったのを1基にまとめた。また、魚雷防御隔壁は厚さが5mm減って40mmとされた。
 公試では28.3ktを発揮、キール軍港を定係港とした。上部構造物はドイッチュラントとかなり異なり、コンパクトな塔状艦橋が設けられた。
 高角砲はドイッチュラントと同様、8.8cm連装砲に、続いて10.5cm単装砲にと順次換装されている。

 1937年、スペイン領アルメリアにて市街を砲撃。
 第二次大戦勃発時、主機不調により出撃できず。
 1939年9月4日、空襲により不発弾3発を受け、損傷。ヴィルヘルムスハーフェン工廠で改装を受ける。この際、艦首は傾斜型に改められ、全長が1.9m伸びた。また、艦橋の形状はドイッチュラントに近い形に改められた。煙突へのキャップの付設、対空火器の強化なども行われている。測距儀には27型レーダーが装備されている。
 1940年2月、艦種を重巡に変更。
 1940年7月、修理と改装を終える。
 1940年9月、戦列に復帰。
 1940年10月27日、通商破壊戦に出撃。
 1940年11月5日、北大西洋にてHX84船団と遭遇。仮装巡洋艦ジャーヴィス・ベイを撃沈。散開する船団を追撃し6隻を撃沈、3隻を大破せしめた。
 1941年、米軍のディクシーを装い、大西洋で活動。
 1941年4月1日、キールに帰港。この航海における収穫は17隻(113233t)に達した。
 1941年9月23日、アドミラル・シェーアとともにアランド諸島でソ連バルチック艦隊の脱出阻止に当たる。
 1942年、ナルヴィク作戦に次いで船団攻撃に従事。
 同8月、北極海にてソ連砕氷艦シビリャコフを撃沈。ポート・ディクソン基地を砲撃。
 同11月、帰国。
 1943年、リュッツォウ、重巡アドミラル・ヒッパー、重巡プリンツ・オイゲンと共に第2戦闘部隊を編成。司令官はティーレ中将。メメルとスウォルベに対し砲撃を敢行。
 1945年2月、アドミラル・シェーア、重巡プリンツ・オイゲン及びアドミラル・ヒッパーとともに東部プロシアからポメラニアに向かってバルチック海沿岸をつたい、陸軍を支援。エルビング陣地を砲撃。
 1945年4月9日夜、キールで入渠中に空襲により爆弾5発が命中、横転。
 1948年、ドック埋め立ての際にそのまま埋設された。


アドミラル・グラーフ・シュペー

装甲艦
ドイッチュラント級

建造ヴィルヘルムスハーフェン工廠
進水1934/6/30
竣工1936/1/6
喪失1936/12/17(戦没・1943年一部解体)
基準排水量12100t
全長186m
21.7m
喫水7.34m
主機ディーゼル8基
軸数2軸
出力55400hp
速力26kt
燃料搭載量重油2800t
航続力8900nm (20kt)
兵装28cm3連装砲2基、15cm単装砲8基、8.8cm単装高角砲3基、53.3cm4連装水上魚雷発射管2基
装甲水線80mm、甲板45mm、主砲塔前楯140mm、主砲塔天蓋105mm、司令塔150mm
搭載機2機
カタパルト1基
乗員619名

 1932年度計画艦。仮称艦名C。戦艦ブラウンシュヴァイクの代艦として建造。
 公試で速力28.5ktを記録。

 1937年5月20日、スピットヘッド沖にて行われたジョージ六世の即位記念観艦式に参加。
 1939年、測距儀上に22型レーダーを装備。
 同8月下旬、ヴィルヘルムスハーフェンを出港。南大西洋上にて待機。なお、これは海軍が第二次大戦の勃発を予期したためではなく、国防軍の定例的な行動であった。開戦後、通商破壊戦を開始。
 同9月30日、イギリス貨物船を艦載偵察機の威嚇射撃で停船せしめる。船長らを収容後、撃沈(一般乗組員は救命ボートに乗せられ、その救助依頼を近くの無線局に発信)。
 同10月4日、遭難船員の上陸をうけ、英仏は戦艦、巡洋艦、空母を主力とする8グループを南大西洋に差し向ける。
 インド洋、大西洋にて合計9隻(50086t)を撃沈、または捕獲。捕虜200人は補給船に委ねられる。南米発の船団を攻撃すべくモンテビデオに向かう。
 同12月13日、ハーウッド提督指揮する英海軍のG部隊と遭遇。この部隊は重巡エクゼター、軽巡エイジャックス、軽巡アキリーズの3隻で編成されていた。これを巡洋艦×1、駆逐艦×2と誤認。6時18分、戦闘開始。(ラプラタ沖海戦)砲撃戦により重巡エクセターを落伍させるも、自らも損害を被り、モンテビデオに入港。
 外交交渉にも関わらず中立国ウルグアイは在泊時間を72時間に限定した。英軍は、モンテビデオを包囲したと喧伝。グラーフ・シュペーでも巡洋戦艦レナウンが出現したと誤認。ベルリンは「抑留は避けよ」と指示。
 同12月17日、ラングスドルフ艦長(大佐)の命により、乗員900名はドイツ商船に移乗。午後6時15分、75万市民の見守る中、艦長以下43名にて出港。港外砂底に艦首を突っ込み、日没と同時に自爆。
 同12月20日、ラングスドルフ大佐はドイツ海軍旗に身を包み、拳銃にて自決。


アドミラル・ヒッパー

重巡洋艦
アドミラル・ヒッパー級

竣工1939
喪失1945(自沈)
基準排水量13900t
全長205.9m
21.3m
喫水5.8m
主機蒸気タービン3基
軸数3軸
出力132000hp
速力32.5kt
航続力6800nm (19kt)
兵装20.3cm連装砲4基、10.5cm連装高角砲6基、37mm連装機関砲6基、53.3cm3連装魚雷発射管4基
装甲舷側80mm、主砲塔前楯160mm
搭載機3機
カタパルト1基
乗員1600名

 仮称艦名H。二番艦ブリュッヒャーと仮称艦名が前後しているが、理由は不明。
 機関部に故障が多く、短い航続距離も難点であった。

 1939年4月末就役。間もなく、凌波性を改善するため垂直だった艦首をクリッパー・バウに変更。
 1940年、レーダーを設置。併せてファンネル・キャップを増設。後檣頂部にも変更あり。
 1940年4月、ノルウェー攻略作戦に参加。その際の塗装はグレー。砲塔上面は識別のため黄色く塗られていた。トロンヘイム上陸戦に陸兵1700名を揚陸せしめんとした。4月8日、荒天下に英駆逐艦グローウォームと遭遇、艦首に体当たりを受ける。損傷はあったものの作戦に支障無し。
 損傷修復後、しばらくノルウェー沿岸にあった。
 1940年末、通商破壊戦に出撃。12月24日、重巡ベリックが護衛する船団を発見。一部艦船を損傷させたものの、機関不調のため作戦を中止。ブレストに帰投。
 1941年2月、再度通商破壊戦に出撃。2月12日、船団(護衛無し)を発見、7隻(32800t)を撃破。航続距離不足のため、2月14日ブレストに帰投。
 1942年、ヒトラーからのノルウェー防御命令により、トロンヘイムに進出。ティルピッツやリュッツォウとともに援ソ船団攻撃を試みるも失敗。  1942年末、バレンツ海海戦に参加。船団攻撃を試みるも霧に阻まれた上、英巡洋艦部隊との戦闘で後退。以後、練習艦扱い。
 大戦末期、東部戦線・ダンチヒからの撤退作戦に従事。
 1945年5月、キールのドック内で英軍機の攻撃により大破。5月3日、自沈、放棄。


ブリュッヒャー

重巡洋艦
アドミラル・ヒッパー級

竣工1939
喪失1940(戦没)
基準排水量13900t
全長205.9m
21.3m
喫水5.8m
主機蒸気タービン3基
軸数3軸
出力132000hp
速力32.5kt
航続力6800nm (19kt)
兵装20.3cm連装砲4基、10.5cm連装高角砲6基、37mm連装機関砲6基、53.3cm3連装魚雷発射管4基
装甲舷側80mm、主砲塔前楯160mm
搭載機3機
カタパルト1基
乗員1600名

 仮称艦名G。一番艦アドミラル・ヒッパーと仮称艦名が前後しているが、理由は不明。

 1939年9月20日就役。この年の冬は寒く、キールの港は凍結したため、公試もろくに出来なかった。間もなく、凌波性を改善するため垂直だった艦首をクリッパー・バウに変更。艦首前端に第3錨。
 1940年4月、ノルウェー侵攻「ヴェーゼル演習」作戦発動に伴い、第5群旗艦として出撃。第5群の目的はオスロの占領で、装甲艦リュッツォーや軽巡エムデンも加わっていた。また、ノルウェー王族を捕らえるためのゲシュタポ部隊も乗艦している。
 この時すでにヒッパーはレーダーを装備している。なお、第5群指揮官はオスカル・クメッツ少将(当時49歳)。
 同8日、0300にスカゲラク海峡の集合地点より出撃。イギリス潜水艦トライトン及びサンフィッシュに発見される。
 同日夜更け、オスロ・フィヨルドの入口にさしかかる。
 同9日0400、進入開始。速力12kt。カホルム要塞より放たれた28cm砲の初弾が艦橋構造物上部に命中。第二弾が搭載機格納庫に命中。上陸部隊の弾薬を納めていたため、誘爆。舵機室も被弾し、操舵不能となる。フィヨルド西岸より放たれた魚雷が、艦首左舷と中央部に命中。機関室は進水し、左舷に傾斜。高角砲弾薬庫で爆発。
 同日0600、総員退去命令が下る。
 同日0630、沈没。救出された者は陸兵と合わせて約千名。


プリンツ・オイゲン

重巡洋艦
アドミラル・ヒッパー級(第2グループ)

竣工1940
喪失1946(海没処分)
基準排水量14800t
全長210m
21.8m
喫水5.8m
主機蒸気タービン3基
軸数3軸
出力132000hp
速力32kt
航続力6800nm (19kt)
兵装20.3cm連装砲4基、10.5cm連装高角砲6基、37mm連装機関砲6基、53.3cm3連装魚雷発射管4基
装甲舷側80mm、主砲塔前楯160mm
搭載機3機
カタパルト1基
乗員1600名

 キールのゲルマニア・ヴェルフトで建造。一番艦、二番艦と比べて若干大きくなり、航空兵装にも変更がある。

 1940年8月1日就役。
 艦首は進水後改修されている。
 2、3番砲塔上部に機銃を増設。また、探照灯を撤去し、20mm4連装機銃を設置。レーダーを新型に改めている。
 1941年5月18日、戦艦ビスマルクとともにゴーテンハーフェンを出港。カテガット、スカゲラック海峡を抜け、ノルウェーのギムスタド・フィヨルドに向かう。艦隊司令長官はリュッチェンス中将。艦長はリンデマン大佐。作戦名は「ライン演習」。なお当初作戦には巡洋戦艦2隻も参加する予定だった。
 同5月23日、デンマーク海峡にて英重巡サフォークに発見される。
 同5月24日、北海にて巡洋戦艦フッド及び戦艦プリンス・オブ・ウェールズと交戦。ドイツ側の観測によれば、交戦距離は18000m。午前6時1分、フッドは轟沈。砲弾1発を被る。航続距離の不安からビスマルクと分離し、補給点に向かう。機関不調のため通商破壊戦を中止、6月1日ブレストに帰投。
 1942年2月、チャンネル・ダッシュ作戦に参加。トロンヘイム港外で英潜水艦の雷撃を受け、艦尾を損傷。2月11日、本国に帰投。
 1942年2月23日、ノルウェー水域にて英潜水艦トライデントの雷撃により艦尾を大破。翌年まで修理。  同年末よりバルト海で活動。スピッツベルゲン島砲撃や東部戦線の撤退支援にも参加する。
 戦後、ほぼ無傷のままアメリカに引き渡される。
 1946年6月17日、ビキニ環礁における原爆実験に用いられる。損傷したままクエゼリン環礁に移され、翌年末に座礁、沈没。


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